じんむてんのうけ
 
ずかい!じんむてんのうけのいだいさ!!
 
てんのうのけいしょうについてのもんだいQ&A
 
おとこけいてんのうけいしょうもんだいわかりやすいてんのうけのもんだいせんしょくたいろんぽうはむしろほんしつからとおざかるでたらめゆうしきしゃかいぎ
おとこけいをすてるということおとこけいてんのうもんだいぷちQ&A
てんのうとじぶんてんのうけはひるいなきゆいいつのてんのうけてんのうけはひるいなきゆいいつのてんのうけ2
こくみんのこころにうったえるてんのうけはみやいえあってけいしょうされてきたてんのうはにっぽんのまもりかみ
 
「こうしつてんぱんにかんするゆうしきしゃかいぎ」のほうこくしょにいぎをもうしたてる 1「こうしつてんぱんにかんするゆうしきしゃかいぎ」のほうこくしょにいぎをもうしたてる 2「こうしつてんぱんにかんするゆうしきしゃかいぎ」のほうこくしょにいぎをもうしたてる 3「こうしつてんぱんにかんするゆうしきしゃかいぎ」のほうこくしょにいぎをもうしたてる 4こうしつてんぱんにかんするゆうしきしゃかいぎのほうこくしょにたいするいぎもうしたてまとめ
どうすればこうしつてんぱんかいせいをそしできるのか(うえ)どうすればこうしつてんぱんかいせいをそしできるのか(した)



へいせい18ねん2がつ10にち

 ずかい!じんむてんのうけのいだいさ!!


 

へいせい17ねん10がつ31にち

 おとこけいてんのうけいしょうもんだい

 
 みぎもひだりもいってよし!!
 ばーちゃるねっとしそうあいどるのやえです。
 おはろーございます。
 
 
 さて。
 こんにちはてんのうけのけいしょうもんだいについてふれてみたいとおもいます。
 といっっても、このもんだいなかなかむずかしいですので、もしまちがいがあればごしてきいただければさいわいです。
 
 とりあえずおさらいです。
 げんざいのこうしつてんぱんによりますと、てんのうにはだんせいしかなれないことになっています
 そして、つぎのてんのうになられるとおもわれるこうたいしさまはとうぜんだんせいのほうなのですが、しかしこうたいしさまのおこさまはあいこさまというおんなのこしかおうまれになりませんでしたので、ちょっけいにはこうたいしさまをさいごにだんしがいなくなってしまうことになります。
 となれば、とうぜんつぎはだれがてんのうにそくいするのかもんだいになってしまいますね。
 ただ、てんのうけはかならずちょっけいではなければならないというきまりはないですから、このばあいにはこうしつてんぱんでさだめられたとおりのこうけいしゃをきめることになります。

 だいにじょう こういは、ひだりのじゅんじょにより、こうぞくに、これをつたえる。
 1.こうちょうし
 2.こうちょうまご
 3.そのほかのこうちょうしのしそん
 4.こうじしおよびそのしそん
 5.そのほかのおうじまご
 6.こうけいおとうとおよびそのしそん
 7.こうはくおじおよびそのしそん

 そのへんはむかしのこうしんでふれているのでごらんくださればとおもうのですが、かんたんにいえば、きんじょうてんのうのこどもがゆうせんされることになりまして、そこでとぎれればきんじょうてんのうのきょうだい(じっしつおとうとですね)、そのつがそのごきょうだいのごしそく、さいごにきんじょうてんのうのおじさんとそのごしそく、というながれになります。
 
 で、あいこようのもんだいのさいには、つまりいまのこうたいしさまのおよのじだいのはなしになるわけですから、わかりやすくいえばへいせいのつぎのじだいであり、きんじょうてんのうはいまのこうたいしさまでいらっしゃるじだいでかんがえるひつようがあります。
 そのじだい、もしこうしつてんぱんにへんこうがくわえられず、だんせいのみのばあいでこういをかんがえたらどうなるでしょうか。
 
 1はげんざいのところいらっしゃらないことになります。
 2もあいこさまがおんなのこですから、かりにあいこようにおとこのこがうまれたとしても、こうちょうまごにはあたらないとかいしゃくすべきでしょう。
 3と4と5も、あいこようにはごきょうだいがいらっしゃらないげんざいでかんがえるなら、これもがいとうしないことになります。
 6ですが、ここにきてようやくあてはまるほうがいらっしゃることになります。
 きんじょうてんのうがこうたいしさまであるとかていしてのはなしですから、つまりこうたいしさまのおとうとみやさまでいらっしゃる、あのおひげがちゃーみんぐななまずのあきしののみやさまのことですね。
 で、そこまではいいんですが、しかしあきしののみやようにも、まこけいこさまというかわいらしいおんなのこがいらっしゃいますが、ごしそくがいらっしゃりません。
 ですから、ここにきても、そののちがつづかないことになるんですね。
 また7のあたりをかんがえても、がいとうのみやさまたちはいらっしゃっるのですが、しかしてんのうのおじさんにあたるにんですからどうしてもこうれいでいらっしゃっているのでげんじつてきではありません。
 そして、そのほうにはごしそくはいらっしゃって、もちろんこういけいぞくくらいはあるのですが、しかしそのかたがたにもごしそくがいらっしゃらないようなのです。
 そもそも、このあたちょっとややこしくなりますが、げんざいのへいせいてんのうからみてのせだいてきないちづけをしてみれば、こうはくおじとはしょうわてんのうのごきょうだいであるのでしょうわてんのうのせだいであり、そのごしそくとはすなわちきんじょうてんのうとどうせだいになります。
 さらにそのごしそくになればつまりいまのこうたいしさまとどうせだいとなりますよね。
 よって、こうたいしさまのせだいのこうぞくほうには、みなごしそくさまがいらっしゃらないというのがいまのじたいなのです。
 なんかまえふりがながくなりましたけど、いまこうけいしゃもんだいがあがっているはいけいには、このようなじじょうがあるのです。
 
 そのようなじじょうをふまえたうえで、いまじょせいのこうぞくにもてんのうになれるように、こうしつてんぱんをかえようといううごきがあるわけです。
 もしじょせいてんのうがかのうとなれば、とりあえずはあいこさままでのおよはほぼかくていできるわけですから、これでひとあんしんできるというわけですね。
 
 しかしここにもひとつもんだいがあります。
 
 じょせいてんのうをみとめるかどうかというもんだいそのものには、もはやこれはぎろんするまでもないとおもっています。
 なぜなら、かこにおいてすでにじょせいてんのうはそんざいしていましたから(さんこう:てんのうけかけいず)、むしろはんたいするほうがおかしいわけで、こうしつてんぱんもなぜだんせいだけとしたのかのほうがぎもんだともいえるわけです。
 ただ、もんだいはですね、じょせいてんのうはいいんですが、そののちのてんのうにはどなたがそくいされるかというもんだいがあるのです。
 たとえばあいこようのつぎのてんのうにあいこようのごしそくがなられたとしたら、それは、おとこけいでつづくてんのうではなくなるということになります。
 おとこけいとは、かんたんにいえば「きんじょうてんのうのおとうさんのおとうさんのおとうさんの・・・おとうさんはじんむてんのう」というかぜにつながることをさします。
 よって、あいこさまがてんのうにそくいされるのはいいんですが、しかしそののち、もしあいこようのこどもがてんのうにそくいすると、「おかあさんのおとうさんの・・・おとうさんがじんむてんのう」となり、おとこけいがくずれるとなってしまうわけです。
 じょせいてんのうはれきしじょうありますが、しかしおとこけいがくずれたことはないわけでして、ここがいちばんのもんだいにいまなっているのです。
 
 このもんだいにちょくめんしているいま、これをかいけつするためにはいくつかのしゅだんがあるとおもいます。
 
 ひとつはおとこけいにこだわるひつようはない、とかんがえることです。
 へんなはなし、ちはつながっているので、あいこさまがてんのうにそくいされ、そのこどもがてんのうにそくいしても、てんのうけそのものにはかわりがないとするかんがえかたです。
 これはてんのうけがおとこけいでずっときたというれきしとでんとうのおもみをどうかんがえるかによるでしょう。
 でんとうというものはにんがどうかんじるかというぶぶんがいちばんたいせつですから、もし「おとこけいでなければてんのうけではない」とおおくのにんがかんじるのであれば、これはできるだけさけたほうがよいとおもいます。
 しかし、これをみとめると、てんのうにこどもさえうまれていればおよつぎぎもんだいはおこらないというめりっともあります。
 わかりやすいといえばわかりやすいですしね。
 
 つぎにかんがえられるしゅだんとして、こっちのほうがてんのうけのありほうとしてれきしてきにせいどうかもしれませんが、おとこけいをなんとかしてつながるようにしんせきすじにてんのうけをつなぐ、というほうほうです。
 このほうほうは、とくにちょっけいであるひつようはなく、てんのうにそくいできるじょうけんとしておとこけいであればよい、とかんがえればわかりやすいでしょう。
 つまり、いまのてんのうとつぎのてんのうのかんがただのしんせきというあいだがらでも、つぎのにんがおとこけいであればもんだいはないわけです。
 よって、じょせいでもこのじょうけんはあてはまるわけですね。
 さきほどさんこうとしてしょうかいしましたてんのうけのかけいずをみていただければわかりやすいのですが、いままでもれきしてきにはかならずしもてんのうけはちょっけいでつながっているわけではありません。
 たとえばさっきのかけいずのしたのほうをみてみると、47だいあつしひとしてんのうからみて46だいてんのうたかしけんてんのうは、もはやひとことでいいあらわすたんごがないぐらいの「ただのしんせき」ですし、さらにまた47だいにはたかしけんてんのうがじゅうそされ48だいしょうとくてんのうにそくいされています。
 さらにさらに、そのつぎの49だいのひかりひとしてんのうなど、48だいしょうとくてんのうからみればこれはいっぱんかんかくからすればほとんど「たにん」といっってさしつかえないぐらいはなれているあいだがらといえるでしょう。
 このようにてんのうけは、しんせきいちどうをそうどういんしててんのうけのほぞんにつとめているわけでして、さらにいうならば、おとこけいというあいだがらこそをまもろうとしているとかんがえられるしょう。
 
 たしかにこのほうほうというのは、ふつうのにほんじんのかんかくからすればわかりにくいといえるかもしれません。
 みんかんのほうをみれば、たとえばぶけなんかはちのつながりよりも、ようしをとってまで「ちょっけい」にこだわっていたといえます。
 また、いわゆる「ほんけ」とはこのちょっけいによるいえすじのことをさし、ぶんけとはそうでないいえをさして、ぶんけがほんけをさぽーとするようなかたちをとったり、ぜったいにぶんけがほんけをこえることがないようにしているばあいがたたあったりと、ほんけぶんけをかなりつよくいしきしているふうしゅうがあったりします。
 しかしてんのうけは、そういうかんがえがあまりつよくないのか、ぶんけでもてんのうになれるわけで、いままでもふつうにそくいされてきたわけです。
 それらをかんがえると、だからこそよりてんのうけが「おとこけい」にこだわっている、てんのうけのあいでぃんてぃてぃにしているんだというかんがえかたもできるかもしれません。
 
 というわけで、このほうほうをいまのおよにあわせてかんがえると、しかしざんねんなことに、げんざいこうぞくとされているかたがたにはしょうらいてきにはだんしがいらっしゃらないというげんじつがあります。
 まぁぎゃくにいえば、だからこそもんだいになっているわけですが、ではどうするかをかんがえたばあい、ちというかかけいてきにかんがえればてんのうけとつながりのあるいえはそんざいするのですから、それをこうぞくにふっきさせ、つぎのてんのうけにつなげていくというほうほうがかんがえられます。
 きゅうかぞくというか、きゅうこうぞくとよばれるかたがたですね。
 そもそもこのかたがたは、こうぞくにはちがいないわけでして、ほうりつのかんけいじょう、というかせんごのあめりかのおしつけけんぽうせいさくじょう、ほうてきにだけはこうぞくでないというだけのそんざいです。
 ですから、ほうてきにこうぞくになっていただければもんだいなしいわけでして、そうすればおとこけいのてんのうけをそんぞくさせることができるのです。
 
 へんなはなしですが、これはにっぽんにかぎらず、おうはこどもをつくるのがいちばんのしごと、おとうとはあにのもしものときのよびよういん、そしてまわりのしんせきはほんけのぴんちのさいのぴんちひったーというところが、おもてむきにはいわれなくても、つきづめればやはりこういうぶぶんはあるというのはひていできないところです。
 よってここは、おとこけいげんそくのてんのうけのそんぞくのためにきゅうこうぞくのほうにごふっきしてもらうのがいいのではないでしょうか。
 ほうてきにどのようなてつづきがあるのか、いまちょっとそこまでしらべていませんのでわかりませんが、しかしこうしつてんぱんをかえるのであれば、そのへんもついでにかえればいいだけのはなしだとおもいます。
 
 ただ、こうなると、こうしつてんぱんはかえるひつようはないじゃないか、じょせいてんのうはかえるひつようはないじゃないかといういけんもあるかもしれません。
 しかしやえはそうはおもいません。
 というのも、たとえきゅうこうぞくのほうにふっきしてもらい、いずれてんのうにそくいしてもらうにしても、そうなれば1からていおうがくをまなんでいただかなくてはなりませんから、かなりじかんがかかります。
 ですからやえは、あいこようにてんのうにそくいしていただくのがべすとなんじゃないかとおもっています。
 あいこようにてんのうにそくいしてもらい、そのつぎのせだいのこうぞくのだんしをこうたいしとして、ようしょうのごろからていおうがくをまなんでもらうというわけです。
 そもそもいまのげんじょうというのはやはりてんのうけのれきしのなかでもけうなぐらいの「きき」といえるでしょうから、じょせいてんのうがとうじょうするじょうけんとしてはまちがっていないでしょうし、ここまでいけばじかんもじゅうぶんあるでしょうから、さまざまなしょもんだいもじょじょにかいけつしていけるのではないかとおもうのです。
 
 
 これらをふまえたうえで、やえはいってんいっっておきたいことがあります。
 そもそもこのようないじょうじたいは、おきてからどうするかをかんがえるのではなく、はじめからいじょうじたいにならないようにするほうがけんぜんなたいしょほうほうです。
 こんかいのこのようなさわぎはどうしておきたのかといえば、やはりこうぞくのかたがたにだんしのこどもがうまれなかったことにあります。
 といっても、それはだれにもどうしようのできないことですからどうしようもないのですが、しかし、だからこそむかしからこうならないために、あるひとつのせいどをここんとうざいあらゆるおうぞくはとっていたわけです。
 それはがわしつせいどです。
 べつにがわしつせいどは、おうさまがとっかえひっかりおんなのこといちゃいちゃしたいからできたのではなく、いやそういうそくめんもひていはしませんが(わらい)、そうではなくて、できるだけこどもをたくさんつくるためにそんざいしたというめんはひていできないじじつです。
 よって、げんだいでも、やはりがわしつせいどをふっかつさせるべきなのです!!
 
 といいたいのですが、これはやっぱりふかのうですよねぇ。
 
 げんじつてきにこのもんだいをかんがえれば、もうかんがえられるぐらいのみやいえをたてて(もしくはじゅんみやいえとか)こういうじたいにそなえるか、またこうたいしには18としぐらいですぐにけっこんしていただいてこづくりにはげんでもらうとか、もしくはじだいはいけいをかんがみておとこけいにこだわらないようにするかしかないのではないかとおもいます。
 そもそもいまのしすてむというか、しゃかいじょうきょうなどいろいろとかんがえると、どっちかといえばちょっけいのほうをおもきにおくしゃかいにさらになっていますし、またちをさらにじゅうしするようになっているといえるとおもいます。
 さっきもいいましたが、めいじあたりまではまだいえのほうをたいせつにしてようしでもせいしきないえのあとつぎとしてまわりもみとめていた、さらにいえば「ゆうしゅうだから」というりゆうだけでようしにむかえられていたようなじだいだったわけですが、いまではそういうふうしゅうもほとんどなくなっていますよね。
 そしてそれをはんえいしているかのようなしょうかぞくとなっているいまのこうぞくのありほうです。
 そうなると、どうしてもおとこけいというわくぐみのほうがふしぜんになってしまうわけです。
 こんかいのようなじたいは、あるいみ、おこるべくしておこったといえるでしょう。
 ですからこれをかいけつするためには、どちらかにあわせるしかないのではないかとおもうのです。
 つまり、おとこけいげんそくをやめるか、もしくはいいかたはわるいですがほけんをふくめただいかぞくかになってもらうかです。
 このへんはよくこくみんもりかいしたうえで、ただたんじゅんに「いまのよのなかにあわせろ」や「おとこけいはでんとうだからけんじすべき」というのではなく、ふかいぎろんをしなければならないのではないでしょうか。
 
 
 さいごにもうひとつかいけつさくがあります。
 これもいまのじだいにそぐわないといえばそぐいませんが、これがいちばんすまーとでしょう。
 それは、あいこさまがじんむてんのうにつながるおとこけいのこうぞくのだんせいとごせいこんしていただく、というほうほうです。
 これならなんらもんだいがないわけです。
 あいこようにそくいしてもらい、そのつぎは、ごしそくようにそくいしていただく、ということですね。
 これだと、あいこようのごしそくようのちちぎみ、つまりはあいこようのだんなさまですが、はこうぞくであり、たどればじんむてんのうにつながるおとこけいのほうですから、おとこけいはまもられるわけです。
 ちちぎみがてんのうだったというひつようせいはないですからね。
 
 けっこんあいてをきょうせいするということにははんぱつもあろうかとはおもいますが、まぁそもそもこうぞくほうにじゆうれんあいがいまでもできているのかといえばけっしてそうではないでしょうし、おむこさんこうほもふくすうにんはいらっしゃるでしょうから、そこはこくみんがりかいすればいいでしょう。
 がわしつせいどよりはぜんぜんもんだいないはなしではないかとおもいますから、それはそれとしてりかいすればいいわけです。
 おみあいとかんがえれば、そこまでげんじつむしでもないとおもいますし。
 
 まぁどっちにしても、このようなじたいをさけるためには、たいしょりょうほうだけでない、これからのぎろんをしていくひつようがあるでしょう。
 さっきのはなしでいけば、おむこさんこうほのためのみやいえというそんざいをつくる、それはほうてきにせいびしなくてもうらのはなしでもいいでしょうし、というほうほうもあるでしょう。
 さいきんは、みんかんのおよめさんをもらうのがはやってますが、そうしなければならないということはないですしね。
 
 まずは、このぎろんをするばあいというのは、てんのうけのはなしであって、ふつうとはちがうべつのじょうしきがあるせかいのおはなしであるということをいしきしてぎろんするひつようがあるでしょう。
 まじめにがわしつせいどふっかつもしやにいれたぎろんぐらいをすべきなのではないかとおもいます。
 
 
 ばーちゃるねっとしそうあいどるやえじゅうよんさいは、てんのうけとにっぽんのれきしをおうえんしています。
 

へいせい17ねん11がつ16にち

 わかりやすいてんのうけのもんだい

 あら、あまおちさん、やっとでてこれたんですか?
 
 あ?
 
 いやだって、ぼうすぴーど○ごんしをあんさつしようとして、しっぱいしてこうあんにつかまっていたんじゃなかったんですか?
 
 ・・・・・・なぜだー。しかもひていしたくないというこうみょうなわなだな(わらい)
 
 おつとめごくろうさまでしたー。
 
 ・・・・・・ほんきにするやつがでてくるからやめなさい・・・。
 
 
 
 というわけで、こんにちはてんのうけのこうぞくもんだいについて、どこのなにがもんだいなのかということをわかりやすくしてきしていきたいとおもいます。
 
 うむ。そのまえに、さーやようにおかれましては、ごけっこんあそばされたこと、こころよりおいわいもうしあげます。
 
 のりのみやさまおめでとうございます。くろださんとこれからのににんさんきゃく、おしあわせになられることをおいのりいたします。
 
 
 ■じょせいてんのうはだめなの?
 
 まずぜんていのはなしだが、てんのうけのもんだいというのは、ゆうきゅうのれきしにうらうちされたけんいがてんのうけにあるからこそ、それをたいせつにじせだいにでんしょうしていかなければならないというかんがえかたがもとにあるわけだから、よっててんのうけがどうあるべきかというのは、まずれきしからまなぶことがただしいすがたであるといえる。まずはれきしてきにはどのようなけいいをたどっているのかこれをしるひつようがあり、これをけいしょうしていくことこそがただしいてんのうけのありほうであるといえるだろう。
 
 はい。では、てんのうけのながいれきしのなかでじょせいてんのうがいらっしゃったかどうかですが、これはもうかんたんに「いらっしゃった」とだんげんできます。しりょうがちゃんとのこっている、というか、かけいずがのこっていて、しっかりとじょせいてんのうもそんざいしたとめいきされています。
 
 いままでにじょせいのてんのうは8にんいらっしゃった。じゅうそが2かいあったので、せいしきには10だい8にんだなyae_log038.html#040202。よって、じょせいがてんのうにそくいされることはなんらもんだいはない。むしろなぜいまのこうしつてんぱんがじょせいをきんししたのか、そっちのほうがふしぎであり、ふしぜんなはなしなのである。
 
 
 ■じゃああいこさまがそくいされてももんだいない?
 
 もんだいない。おれとしてもぜひそくいしていただきたい。
 
 おとこのこがうまれるか、おんなのこがうまれるのか、もはやこれはにんげんとしてのうんめいとしかいいようのないりょういきのはなしですし、そしてこうたいしごふさいにおんなのこだけがうまれたというじじつにたいして、これはそのあいこさまがそくいされるうんめいにあったんだとおもうんですよね。
 
 れきしもでんとうもうんめいなんだよ。
 
 
 ■ではなにがもんだいなの?
 
 まず、「てんのうけはおとこけいでつくられてきているでんとうのいえである」というじじつを、ぎろんのまえにきほんにんしきとしてあたまのなかにおいておくひつようがある。これもてんのうけのかけいずからめいかくにじじつであるといいきれるものであり、このもんだいにおいてのぜったいじょうけんである。
 
 たいせつなのは、つづいているとおもわれていることです。きょくろんすれば、げんみつにつづいていなくても、つづいているとおもわれてさえいればもんだいはないのです。こんかいのおはなしはいがくてきとかがくじゅつてきなおはなしなのではなく、でんとうというこころにかかるもんだいだからです。
 
 まぁもしいままでじょせいてんのうをみとめていないのであれば、あいこさまがそくいされることにははんたいしていたであろう。しかしそうではないじじつがあるからこそさんせいするのであって、そしてそれとおなじように、いままでのてんのうけはおとこけいでつくられてきたからこそ、これからもおとこけいにこだわるのである。つまり、れきしてきにでんとうはそのようにつづいてきたというじじつにたいし、それをりこうするかどうかというはなしだ。
 
 そして、そのおとこけいというつながりがちかぢかとぎれるそうになるっていうのがいまもんだいになっているわけです。いままでてんのうけはおとこけいでつづいていたわけですが、それがとぎれるそうになっているのがげんじょうでして、そのでんとうをやめてしまいおとこけいではないてんのうけをつくりなおすのか、それともなんとしてでもおとこけいをいじするのか、ここにもんだいとしてのぎろんのそうてんがあるんですよね。
 
 かんたんにいえばそうだな。
 
 
 ■おとこけいってなに?
 
 てんのうけのばあいでいえば、「おとうさんのおとうさんのおとうさんの…おとうさんがじんむてんのう」というつながりのことをいいます。このたいひでいえばおんなけいというものは「おかあさんのおかあさんのおかあさんの…のおかあさんが○○てんのう」ということになるのですが、しかしじんむてんのうはだんせいとされていますから、きほんてきにてんのうけはおとこけいなわけです。そしてこのおとこけいこそがてんのうけのしょうめいでもあるといえるぐらいてんのうけにとってはたいせつなでんとうなのです。
 
 たまによくごかいしとるやつがいるのだが、あいこさまはおとこけいのけいふである。なぜなら、あいこようのちちうえはこうたいしさまであり、そのちちうえはきんじょうてんのうであり、よってじんむてんのうにつながるおとこけいのけいふだからな。だからあいこさまがてんのうにそくいされることにはなんらもんだいがないのだ。
 
 このもんだいは、あいこさまがそくいされることがどうなのかというもんだいなのではなくて、あいこようのつぎにそくいされるてんのうをどうするのかというもんだいなんですよね。
 
 そう。あいこさまはおとこけいだが、しかしあいこようのこどもはおとこけいではなくなるのだ。ここがこのもんだいのさいだいのそうてんなのである。
 
 
 ■おとこけいじゃなくてもちがつながっていればてんのうけとよべるんじゃないの?
 
 まず、てんのうのそくいにかんするはなしというのは、これは「いえ」のはなしであることをよくあたまになかにいれておいてほしい。けっしてちのもんだいではないのである。このはなしはいがくてきながくじゅつてきなはなしではなく、でんとうのはなしでありちをつなげようというもんだいなのではない。あくまでいえをつなげていこうというはなしであるからして、いえをつぐためのるーるをいかにじゅんしゅしていくかがいちばんのそうてんなのである。
 
 かんたんにいえば、ちがつながっていなくても、ようしをとればいえはつづくとされるけーすもあるというようなかんじですよね。
 
 そうそう。そのいえがどうつづくか、どういうるーるをもってつづくとされているのかは、そのいえによってかわってくるもんだいであるので、いっぱんろんではいえない。もしそれをかたるのであれば、そのるーるをりかいしてからはつげんするひつようがあるわけだ。たとえば、げんざいのよくあるぱたーんで「いえがつづく」といえば、どういうばあいをさししめすだろうか。
 
 げんだいのいっぱんてきなかんかくからすれば、ちのつながっているこどもがそのみょうじをうけつぐこと、ではないでしょうか。たとえばてんださんがおとうさんで、そのちょうなんでもじなんでもりょうほうでもてんだせいをなのればてんだいえはつづいているといえるでしょう。またおんなのこともでも、けっこんしたさいにてんだせいをなのればてんだいえはうけつがれたとにんしきされるとおもいます。つまりだんなさんがむこようしになるというひょうげんがもちいられますね。あとはようしのばあいでもいえがつづくといわれるとはおもいますが、まぁいまはいえをつぐことそれじたいにかちをみいだしているにんはすくなくなっているでしょうし、いえのためだけにようしをとるというにんもそうはいないでしょうけどね。
 
 そうだな。しかしこのかいしゃくではないばあいやじだいもある。でんとうげいのうとかなにかをつくるようないわゆる「いっしそうでん」のでんとうがあるいえなんかでは、かならずちょうなんでなければならないときめているいえもあるだろう。このばあいでは、そうでないにんげんがそんざいしても、ちょうなんさえいなければいっしそうでんそうけはだんぜつする、といえるわけだ。
 
 めいじだいせいじだいまでは、ちのつながりもそこまでじゅうようしされていなかったですよね。ようしによるいえのでんしょうもふつうのことでして、たとえばしんせんくみきょくちょうのこんどういさのこんどういえはけんじゅつのいえですが、いさみはまえそうけのこんどうしゅうじょのじっしではなくようしですし、しゅうじょじしんもそのまえのそうけのようしだったりしています。でもそれでもてんねんりこころりゅう(けんじゅつのりゅうは)としてのこんどういえはせいしきにでんしょうされているとまわりからもにんしきされているわけですね。とうじは、じっしがいてもようしをとるなんてこともよくあったみたいですしね。
 
 まぁこのへんはかちかんのもんだいだから、いまあげたれいがかならずただしいというのではなく、そのいえやそのにんがついでいるとおもえばいいわけだがな。そしてだからこそ、てんのうけがいままでつづけてきたでんとうをまもるべきなのではないかというはなしなのである。てんのうけのだんぞくのはなしは、じぶんのかちかんでかんがえるのではなく、てんのうけのるーるでかんがえるべきである、というはなしだ。
 
 ですから、いくらちがつながっていようとも、ちょっけいのじっしであろうとも、おとこけいでないあいこようのこどもがてんのうになったとしたら、それはいままでのてんのうけのるーるにしたがっていないので、てんのうけがけいしょうされたとはいえないのではないかってはなしなんですよね。
 
 
 ■てんのうけのるーるって?
 
 つまりおとこけいであるということだ。てんのうけのばあい、むしろおとこけいであるというるーるしかけいしょうのでんとうはないといっってもかごんではないかもしれない。
 
 いっぱんてきな「いえをつぐ」とされるばあいというのは、ほとんどはおやからこにつがれるわけですよね。それがじっしであろうと、ようしであろうと、きほんは「おやからこに」です。しかしてんのうけにはそれがないんですよね。てんのうけのかけいずをごらんになっていただきたいのですが、たとえば46だいてんのうたかしけんてんのうからつぎの47だいあつしひとしてんのうのあいだがらは、もはやひとことでいいあらわすたんごがないぐらいの「ただのしんせき」でしかないあいだがらといえます。さらに49だいのひかりひとしてんのうとそのつぎの48だいしょうとくてんのうのあいだがらは、これはいっぱんかんかくからすればほとんど「たにん」といっってさしつかえないぐらいのかんけいですよね。このように、てんのうけのけいしょうのるーるには「おやからこへ」というるーるはないのです。
 
 これはふつうのいえとかにはほとんどありえないといえるよな。
 
 いっしそうでんのいえとか、えどじだいとかでは、ちよりもおやこのかんけいをじゅうししていて、ほんけとぶんけというかんがえかたがありますけど、きほんてきにちょうなんにけいしょうされるほんけにたいして、ぶんけはあくまでぶんけであってどうやってもほんけにはなりえないのですが、しかしてんのうけは、いっぱんかんかくからすればぶんけであるにんげんでももんだいなくほんけ(てんのう)になることがままあったわけです。これはかなりいっぱんかんかくからすればありえないはなしだといえるでしょうね。
 
 もしくはどうしてもちょうなんがいないというばあいには、ぶんけのにんげんをいちどようしにするとかいうしゅだんをもちいるばあいもあるだろうが
 
 しかしてんのうけのばあいにはそれはないんですね。46だいと47だいのてんのうは、ちのうえでもこせき(?)のうえでもおやこかんけいはないのです。というかようしせいどじだいがてんのうけにはないのかもしれませんけど。
 
 これがてんのうけのけいしょうにかかるるーるなのである。つまりきょくろんすれば、おとこけい・・・すなわちちちのちちのちちの…のちちがじんむてんのうであるにんげんであれば、ほんけのにんげんであろうとぶんけのにんげんでろうとだんせいであろうとじょせいであろうといままでたかいみぶんではなかったにんげんであろうと、だれでもてんのうになれるしかくをゆうする、というな。
 
 
 ■ではげんざいそのしかくをもっているにんはだれがいるの?
 
 いろいろとふくざつになりますので、とりあえずこうたいしさまとどうせだいとそのしたのせだいだけでかんがえます。まずこうたいしさま、そしてあきしののみやさまのおにほう。りょうきさきでんかほうのおちちうえはてんのうけにつながりませんのでてんのうにはなりません。それから、あいこさま。あいこようのおちちうえはこうたいしさまであり、こうたいしさまのおちちうえをさかのぼっていきますとじんむてんのうにたどりつきますからしかくがあります。また、あきしののみやようのごそくじょさまであられますまこけいこようのおにほうとももてんのうになられるしかくをもっていらっしゃっています。おにほうのおちちうえはあきしののみやさまであり、あきしののみやようのおちちうえはきんじょうてんのうですから、さかのぼっていきますとじんむてんのうにたどりつきます。で、これで5にんのほうのなまえがあがりましたが、のちほかにだれかいらっしゃるのかとかんがえますと、じつはこれでおわりだったりするんです。ざんねんながら、げんざいのこうしつのこうたいしさまよりしたのせだいでは、このかたがたしかおとこけいのちすじのかたはいらっしゃらないんですね。
 
 ただし、げんざいはこうしつてんぱんというほうりつがあって、そこではなぜかじょせいてんのうをみとめていないので、てんのうけでのしかくはあってもほうてきにはあいこさまやまこけいこさまはてんのうにはならないことになっておる。
 
 けっきょくいまのままでしたら、こうたいしさまでてんのうけはおわりになってしまうんですよね。
 
 
 ■じゃああいこさまがてんのうにそくいされればもんだいはなくなるのでは?
 
 ここでやっともんだいのほんしつにいけるのですが、たしかにあいこさままではもんだいはないのです。こうしつてんぱんをちょっとかえるひつようがありますが、ちょっとだけですから、ちょちょっとかえちゃえばいいんです。ただし、もんだいなのが、あいこようのつぎのてんのうのもんだいなのです。
 
 では、ここまでのおさらいをしてみよう。てんのうのけいしょうのるーるにはどのようなものがあったかな。
 
 はい。かじょうがきにしますと、
 
 ・おとこけいであること
 ・じょせいであってもかまわない
 ・おやからこにつがせるひつようもない
 
 こんなところでしょうか。
 
 うむ。ではあいこようのつぎのてんのうを、このるーるにそってかんがえてみよう。どうなるかな。
 
 もしあいこさまがごせいこんされてこどもができるとします。このこどもがおとこのこであったばあい、そのおとこのこにてんのうにそくいするしかくがあるかどうかをかんがえますと・・・、やはりおとこけいのぶぶんでひっかかります。そのおとこのこのおとうさんはてんのうけのにんげんではないでしょうから、じんむてんのうにはつながらなくなってしまいます。おかあさんのおとうさんのおとうさんの…のおとうさんはじんむてんのうですが、これはるーるにそくっていません。
 
 そうだ。ではこうたいしさまいがいのみやようのばあいはどうだ。
 
 あきしののみやさまはてんのうになれます。またまこけいこさまもなれます。しかしまこさまとけいこさまがごせいこんなられてこどもがうまれたとしても、やはりあいこようのばあいとおなじように、おとこけいとしてつながらないことになってしまいます。
 
 そうなのだ。けっきょくこれでてづまりなのだ。よって、じょせいてんのうをみとめただけでは2600ねんつづいたてんのうけのれきしはあいこさまでさいごになってしまうというわけだ。
 
 
 ■あいこようのこどもがてんのうになっても、てんのうけはてんのうけじゃないか
 
 さっきもいいましたように、てんのうけはおとこけいであるというるーるがあっててんのうけとよべるのであって、おとこけいのにんげんがけいしょうするからこそてんのうけはてんのうけでありつづけるのです。たとえばてんだいえがいっしそうでんのいえだったとします。もしてんださんにこができなかったとして、いっしそうでんのるーるがまもられなかったとしましょう。このばあいにおいて、いくらてんださんのおとうとがてんだせいをなのっているんだからてんだいえはそんぞくしているじゃないかときょうべんしたとしてもですね、しかしいっしそうでんのるーるはこれでつぶれているわけですから、そうけいっしそうでんてんだいえはどうやってもだんぜつといわざるをえないのです。おとうとのてんだいえはべつのてんだいえでしかないという、いっしそうでんとはそういうるーるなのですからね。
 
 このもんだいは、はじめにもいっったようにいっぱんじょうしきでかんがえたらだめなんだよ。てんのうけのるーるでは、いくらおやからこにてんのうをけいしょうしたとしても、それだけではてんのうけがつづいているとはいえないのだ。てんだいえに、なんかしらないけどかけいうえはつながっているほとんどたにんみたいなにんをつがせても、それでおれのてんだいえがつづいているとはふつうではかんじられないんだろうが、しかしてんのうけはそれでつづいているといわれるわけだ。ぎゃくに、てんのうけのばあいはいくらこどもであったとしてもおとこけいでないにんげんがてんのうにそくいしてしまったら、つまりぐたいてきにいえばあいこようのこどもがそくいしたら、それはほんけてんのうけ、すなわちじんむてんのうけはだんぜつとしたといわなければならないのである。
 
 つまり、あいこようのこどもがそくいしたら、てんのうけとなづけることはできるのかもしれませんけど、いままでのてんのうけとはべつのてんのうけになっちゃうんですよね。じんむてんのうけではない、あたらしいあいこさまをしそとするてんのうけであるといえるわけです。これをにほんこくみんとしてそんちょうするかどうかというはなしはまたわかとして、しかし2600ねんつづいたてんのうけがだんぜつさせていいのか、というもんだいであるわけなのです、このもんだいは。
 
 いままでのにっぽんのれきしというものは、すべてじんむてんのうけとともにあったわけだ。このれきしをいまこのじだいに、われわれのじだいにわれわれからとだえさせていいのか、そのかくごはあるのか、こうせいのにほんじんからうしろゆびをさされることにならないのか、そういうぎろんをいましているわけで、しなければならないわけだな。
 
 
 ■ではどうすればじんむてんのうけがそんぞくできるの?
 
 もういっかいるーるをいっってみたまえ。
 
 はい。
 
 ・おとこけいであること
 ・じょせいであってもかまわない
 ・おやからこにつがせるひつようもない
 
 ですね。じっしつてきには「おとこけいであること」だけがゆいいつのるーるであるといえるでしょう。
 
 ただしげんざいはこうしつてんぱんというほうりつがあって、そっちにもるーるがつくられてしまっている。そっちのるーるはかんたんにいうと、「だんせいであり、こうしつのにんげんであること」だ。しかしいまのままではじんむてんのうけはだんぜつしてしまう。だからそれをかいひするためにはこうしつてんぱんをかえることはぜったいじょうけんとしてひつようなわけだ。つまり、てんのうけのるーるをまもりつつ、あたらしいきそくであるこうしつてんぱんはかえると。
 
 では、どこをかえたらじんむてんのうけはだんぜつせずにすむのでしょうか。
 
 まずぎゃくにかんがえればいい。こうしつてんぱんがないとして、じんむてんのうけがそんぞくするほうほうはないのかとかんがえる。てんのうにそくいするためにはおとこけいであるひつようがあるわけだが、いまのところこうたいしさまのしたのせだいではそれがあいこさまとまこけいこさましかいらっしゃらないとされている。けどそれはこうしつてんぱんのきていがあるからでしかない。つまり、いまはこうしつてんぱんによってみやいえではないとされているが、もともとはみやいえであり、じんむてんのうのおとこけいをうけついでいるいえがそんざいするのだ。
 
 じつはにんずうてきにけっこういらっしゃるそうなんです。いわゆるきゅうこうぞくとよばれるかたがたですね。このかたがたはきほんてきにはじんむてんのうのながれをくむかたがたですから、このかたがたからてんのうにそくいされればなんらもんだいがないことになります。
 
 
 ■てんのうがおやでなくてももんだいはないのか?
 
 ない。
 
 またまたかけいずをみていただければとおもうのですが、れいをあげるまでもなく、おやがてんのうでなくてもてんのうにそくいされたかたはたくさんいらっしゃいます。けっきょく「おとこけいである」だけがぜったいてきなるーるであって、それいがいであればどんなかんけいであってもてんのうけにそくいできるといえるのです。
 
 こうしつてんぱんなど、てんのうけのゆうきゅうのれきしからすればむしろいれぎゅらーなそんざいなのだから、こんなものをいちいちたいせつにするひつようはない。もんだいがあればかえればいいだけのはなしだ。こうぞくでないかたがたというのも、それもGHQがかってにいじっただけにすぎないそちなのだから、これをもっててんのうにそくいできないりゆうにはならない。そんなるーるかえてしまえばいいんだ。
 
 それから、もうひとつかのうせいはあります。こっちのほうがすまーとかもしれませんが、ちちうえがおとこけいであればいいというかんたんなじょうけんがてんのうけのじょうけんなのですから、あいこさまとおとこけいのきゅうこうぞくのほうがごせいこんされればいいのです。つまり、こうたいしさまがつぎのてんのうにそくいされ、そのつぎはあいこさま、そしてそのつぎにあいこさまとおとこけいのほうとのまにおうまれになったこどもがてんのうになられると。じつはこれでおーるおっけーだったりするんですよね。
 
 そうなれば、けいしょうじゅんいもんだいもほとんどなくなるといっってもいいだろうしな。
 
 
 ■それはせいりゃくけっこんなのではないのか?
 
 それはかちかんのちがいでしかないだろう。そもそもげんだいのこうしつのありほうって、ひつよういじょうにへいみんのかんがえかたをいれすぎなんだよ。おとこけいのぎろんがまさにそのしょうちょうで、なぜかちょっけいにこだわるようなはつげんをするやからがおおすぎるんだが、それはへいみんのかんがえかたでしかなく、てんのうけのかんがえかたではないわけだ。それとおなじように、じゆうれんあいすべきというのはしょせんへいみんのかちかんでしかなく、それをてんのうけにおしつけるのはいかがなものかというはなしなのだ。
 
 みちこさまがこうしつはじめてのみんかんからのこうごうようになられたわけですが、それもはたしてほんとうにじゆうれんあいなのかというのはだんげんできないはなしですしね。
 
 まぁなぁ。なんか、あれはたしかまさこようのときだったかな、というかこうたいしさまのときだったというべきか。あのときってなぜかなんにんかの「およめさんこうほ」のなまえがあがって、ますこみなんかもいろいろとすきかってなこといっってたよな。
 
 そうですよね。けっきょく「このなかからえらべ」っていわれているようなものですからそれ。それでかんぜんにじゆうれんあいだというのはどうなのかなっておもっちゃいますよね。ただおみあいだとおもえば、それはそのとおりでしょうから、あいこようのときだって、それでいいとおもいます。
 
 けつろんをいえば、てんのうけがてんのうけでありつづけるためには、じょせいてんのうをみとめ、しかしおとこけいはいじし、そしてきゅうこうぞくのほうにはいまいちどこうぞくにふっきしていただくと。そしてそれがなされるようにこうしつてんぱんをかいせいするべきだ、というわけだ。
 
 
 
 
 すんごくながくなりましたが、まだまだかたるべきことがありますから、これつづけていきましょう。
 
 うむ。いけんのあるやつはぎろんいたにかいてくれ。てんのうのもんだいはにっぽんのもんだいである。みなでかんがえていこう。
 

へいせい17ねん11がつ24にち

 せんしょくたいろんぽうはむしろほんしつからとおざかる

 さいきん、いわゆる「けいじばんすぱむ」にうんざりしています。
 いろいろとたいさくはこうじているのですが、そのほとんどがかいがいからのおそらくそふとをつかってのかきこみみたいですから、ほとんどいたちごっこのようなかんじになってしまっています。
 まぁとうさいとにおこしになるかたがたがこのようなさぎにひっかかるとはおもっていませんが、しかしうっとうしいことにはかわりないわけでして、しかしやえはそんなにCGIとかすくりぷととかくわしくありませんもので、どなたかくわしいほうがおられましたらよいおちえをごきょうじゅいただけないでしょうか。
 たださいきんはぎろんいたのほうがいいかんじできのうしていますので、そちらにかんぜんにとうごうしてしまってもいいのかなとはおもっていたりします。
 またけいじばんをあたらしくするのもてかなともおもってますし、いまつかってるのはだいぶふるいものですし、それらもふくめてけんとうしていきますので、よいほうほうがあればおしえてください。
 
 
 みぎもひだりもいってよし!!
 ばーちゃるねっとしそうあいどるのやえです。
 おはろーございます。
 
 
 さて。
 21にちに、こいずみそうりのしてきしもんきかんである「こうしつてんぱんにかんするゆうしきしゃかいぎ」(ざちょう・よしかわひろゆきもととうだいがくちょう)が、おとこけいおんなけいにかぎらずだいいっしにこういけいしょうけんをゆうせんさせるというけつろんをだしたとほうどうがなされました。
 とうさいとではおとこけい・おんなけいのはなしはぜんからよくあつかっていますし、これからもおおきくとりあつかおうとおもっていますからこんにちはこのけつろんじたいにはとくにふれようとおもいませんし、またこのかいぎのかいぎぎいんのめんつをみたら、どうもこうしつもんだいのせんもんかがほとんどいなくて、ざちょうですらこうがくはくしという、こうしつのもんだいはむしろかんねんてきなもんだいなのにそのたいきょくにあるかがくのせんもんかがなぜざちょうをしているのか、なんともまかふしぎなかいぎだったりするのですが、これもごじつにあとまわしすることにします。
 こんにちはですね、おとこけいをそんぞくさせることをゆうせんさせろといういけんをしゅちょうされているほうのなかでも、ある1つのいけんについてとりあげようとおもっています。
 
 さいきんこのようないけんをよくききます。
 
 じょせいはXXというせんしょくたいをもっていて、だんせいはXYというせんしょくたいをもっています。こどもがうまれたばあいというのは、それぞれからひとつずつせんしょくたいをうけつぐことになるのですが、だんせいのXせんしょくたいをうけつげば「XX(ははがわ・ちちがわ)」でおんなのこがうまれ、だんせいのYせんしょくたいをうけつげば「XY」となりおとこのこがうまれることになります。つまりじんむてんのうにつながるおとこけいとは、じんむてんのうのせんしょくたい「Y」をうけつぐといういみであり、もしYせんしょくたいをうけつがないXXのおんなけいてんのうがたんじょうしてしまえば、それはてんのうけのだんぜつといえてしまうのです。
 
 せんしょくたいろんぽうとでもなづけましょうか。
 はっきりいっってしまえば、やえはこのろんぽうはきらいです
 やえはせんしょくたいについてくわしいちしきがありませんので、どのていどじんむてんのうのせんしょくたいじょうほうがげんだいにまでうけつがれているのかわかりませんが、そもそもそんなことはどうでもいいはなしで、このもんだいというかこうしつのもんだいというのは、そんなかがくてきなはなしではありません
 さきほどもいいましたように、こうしつのもんだいはかんねんてきなもんだいです。
 たんてきにいえば、これはものがたりのおはなしなのです。
 じんむてんのうからげんだいまでおとこけいとしてつながっているとみながおもっているものがたとしてそんざいしているという、このじじつがたいせつなのであり、いがくてきにかがくてきにほんとうにつながっているかどうかというのはこのきわもんだいではないのです。
 
 でんとうはものがたりです
 それはけっしてかがくてきにぶんせきできるものではありません。
 たとえば「そうぎょう160ねんのあじ」なんていわれたら、なんだかとてもおいしそうなきがします。
 しかしはたしてほんとうに160ねんまえのあじを100%でんしょうしているのかはわかりませんし、かがくてきにみてもそのあじやせいぶんには160ねんまえとなんらいっちするじょうほうがないかもしれません。
 もちろん160ねんかんはいぎょうせずにしょうひしゃからしじされつづけてきたというてんにおいてそれなりのほしょうがあるとはいえるかもしれませんが、しかしそれはあしたはいぎょうしないことをほしょうしているわけではありませんから、いまげんざいのあじをほしょうするものではないといえます。
 それでもにんは「そうぎょう160ねんのあじ」というかんばんにでんとうとけんいをかんじるのです。
 そこにかがくてきにこんきょがなかったとしても、にんがそうしんじているといういみにおいて、「160ねんのあじ」はかくじつにそんざいしつづけているものがたりなのです。
 
 いきつくところまでいってしまうと、「じゃあてんのうのいでんしをしらべてみよう」というはなしになってしまいます。
 しかし、てんのうが2600ねんつづいているというこのでんとうは、そんなものかんけいなく、ものがたとしてひとびとにしんじられうけつがれているじじつなのです。
 このじじつこそがもっともたいせつなのであり、そしてゆいいつのしんじつであって、けっしていでんしてきにどうだとかYせんしょくたいがどうだとかいうのは、なんらかかわりあいのないはなしなのです。
 かがくてきこんきょなどなくても、にんはでんとうというめにみえないちからになんらかのえいきょうをうけています。
 たいせつなのはひとびとがしんじるちからです。
 「おとうさんのおとうさんのおとうさんの…のおとうさんはじんむてんのう」という2600ねんをかけたそうだいなろまんを、これからのにほんじんがどうじせだいにけいしょうしていくのか、これがいちばんたいせつなもんだいであるのです。
 やえは、このせかいにるいをみないこどものつくりはなしかとおもえてしまうぐらいのすけーるのおおきなゆうきゅうのものがたりを、これからもたいせつにして、つぎのせだいにもうけついでもらいたいとおもっているだけなのです。
 
 2600ねんまえににほんじんがどんなことをかんがえてどんなせいかつをしていたかそうぞうできるだけでも、こんなすてきなはなしはないじゃないですか。
 

へいせい17ねん11がつ28にち

 でたらめゆうしきしゃかいぎ

 みんしゅとうのにしむらだいぎしがたいほされました。
 まぁこれについていろいろとますこみやゆうしきしゃやねっとなどでいわれるとはおもうのですが、やえとしましてはひとこと「いんぼうろんはしょせんいんぼうろん。なにもうまれはしませんよ」といっっておきます。
 あと、こちらのりんくさきもおよみください
 おもしろいですよ。
 
 みぎもひだりもいってよし!!
 ばーちゃるねっとしそうあいどるのやえです。
 おはろーございます。
 

 まずさきにごめんなさい。
 きょうのこうしんは、にゅーすきじだけをよんでのこうしんです。
 ぶんしょうをかきあげたはいいのですが、ふとしらべたら、もっとくわしいしりょうがかんていにあっぷされていまして、ほんらいならそっちのほうをよくよんでからにすべきぶんしょうなのですけど、ここさいきんこうしんがままならないじじょうもあわせて、きょうぐらいはこうしんしないとみなさまにもうしわけありませんので、とりあえずあっぷします。
 きほんてきにはそのしりょうをうけてのにゅーすきじですから、おおすじではかわらないとおもうのですが、もししりょうをくわしくよんでからへんこうてんなどありましたらおってついき、またはさくじょするかもしれません。
 とりあえずきょうのところは、ぼうとうへんぐらいにおもっていただければさいわいです。

 
 さて。
 きょうもおんなけいてんのうもんだいについでです。
 
 れいの、こうがくはくしがざちょうというきみょうきてんれつなしもんかいぎがせんじつほうこくしょをこいずみそうりにていしゅつしたとおつたえしましたが、そのないようがせんじつほうどうされました。
 なんといいましょうか、おんなけいてんのうをようにんするいけんのせんはかさがすべてしゅうやくされているかのようなないようになっていますので、こんにちはこれをひとつひとつけんしょうすることにします。
 まずはきじをごらんください。

 こうしつてんぱん ゆうしきしゃかいぎがほうこくしょ じょせい・おんなけいてんのうようにんをはしらに
 
 こいずみじゅんいちろうしゅしょうのしてきしもんきかん「こうしつてんぱんにかんするゆうしきしゃかいぎ」(ざちょう・よしかわひろゆきもととうきょうだいがくちょう)は24にち、じょせい・おんなけいてんのうのようにんをはしらにしたほうこくしょをまとめ、しゅしょうにていしゅつした。じょせい・おんなけいようにんは「しゃかいのへんかにたいおうしながら、おおくのこくみんがしじするしょうちょうてんのうせいのあんていてきけいぞくをかのうにするうえでおおきないぎをゆうする」とけつろんづけた。
 おとこけいいじはがしゅちょうする1947ねんにこうせきりだつした11のきゅうみやいえのこうせきふっきは「こくみんのりかいとしじ、あんていせい、でんとうのいずれのしてんからみてももんだいてんがある」としりぞけた。そのうえで、じょせい・おんなけいようにんについて「おとこけいだんしげんていにくらべ、かくだんにあんていてきせいど」としてき。さらに「じょせいのしゃかいしんしゅつもすすみ、せいべつによるこていてきなやくわりぶんたんいしきがよわまるけいこうにある。せっきょくてきにうけいれ、しじするそじがけいせいされている」としるした。おとこけいいじはからのひはんにこたえるかたちで「はばひろいこくみんのしじがえられるせいどであるかぎり、せいとうせいがゆらぐことはない」ともしゅちょうした。
 
 ◆「こうしつてんぱんにかんするゆうしきしゃかいぎ」のほうこくしょこっし
 ・おとこけいだんしのこういけいしょういじはきわめてこんなん。
 ・きゅうこうぞくのこうせきふっきはこくみんのりかいとしじ、あんていせい、でんとうのしてんからもんだい。
 ・じょせい・おんなけいてんのうのようにんはしょうちょうてんのうせいどのあんていてきけいぞくをかのうにする。
 ・「ちょうしゆうせん」によるこういけいしょうはせいどとしてわかりやすく、まされている。
 ・てんのう・こうぞくのしそんはよかずをとわずこうぞくのみぶんをゆうする「えいせいこうぞくせい」。
 ・じょせいこうぞくはこんいんごもこうぞくにとどまり、はいぐうしゃやしそんもこうぞくとなる。
 ・じょせいてんのう、じょせいこうぞくのはいぐうしゃのめいしょうはこんごのけんとうかだい。

 まず、ますこみのいちぶにもおんなけいとじょせいをこんどうしてぎろんをみすりーどしようといとしているとしかおもえないようなほうどうがあったりしますが、このゆうしきしゃかいぎそのものがそのようにあくいをもってけつろんをだしたとしかおもえなかったりしています。

 さらに「じょせいのしゃかいしんしゅつもすすみ、せいべつによるこていてきなやくわりぶんたんいしきがよわまるけいこうにある。せっきょくてきにうけいれ、しじするそじがけいせいされている」としるした。

 これは「じょせいてんのう」のようにんについてのせっとくざいりょうでしかありません
 じょせいてんのうについてはごくいちぶのにんをのぞいて、ほとんどはんたいしているにんなんていないといっってもいいぐらいなのですから、これだけをいまさらここまでいうひつようはないのではないでしょうか。
 そして、まったくもって「おんなけい」ようにんのりゆうにはなっていません。
 もしこのもんごんだけで「おんなけい」ようにんのざいりょうになるときょうべんするのであれば、それは「おんなけい」を「じょせい」とこんどうさせてしまい、おとこけいであるじんむてんのうのれきしてきないぎや、それをともなわないおんなけいてんのうにいこうしてしまういみをまったくむししての、いっってみれば「だんじょびょうどう、ともすればかじょうなふぇみにずむにびんじょうした、じょせいをたてればなんでもゆるされてしまうふうちょうをりようしておんなけいをおしすすめてしまおう」というあくいあるいとがあるのではないかと、このはつげんはそれをそんざいしているしょうめいではないのかともいえてしまうのではないかとおもいます。
 おとこけいおんなけいのせつめいをせずに、このようなけつろんをだして、これをみすりーどとよばずになんとよぶのでしょうか。
 
 これはますこみにたいしてもどうようです。
 げんざいのこくみんのなかにも、おとこけいとおんなけいをめいかくにりかいしているにんというのはすくないというのがげんじょうですから、むしろますこみはそれをせつめいしてこくみんてきぎろんをうながすことがほんらいのしめいのはずです。
 しかしいちぶますこみは、そのしめいをおこたり、いやおこたるだけならまだしも、こくみんのむちをりようしておんなけいてんのうをじょせいてんのうとこんごうさせたままこくみんをみすりーどしようとしています。
 もしおとこけいとおんなけいのせつめいをしないまま、しかしじょせいてんのうはみとめるべきだというようなしゅちょうをしているますこみがあったら、これはもはやかくしんはんてきに「おんなけい=じょせい」とみすりーどしてんのうけのでんとうをはかいしようとかくさくをきんでいるといわざるをえません
 ゆうしきしゃかいぎも「おおくのこくみんがしじするしょうちょうてんのうせいのあんていてきけいぞくをかのうにするうえでおおきないぎをゆうする」としゅちょうするのであれば、まずいままでれきしのなかでつちかわれてきたてんのうけというものはずっとおとこけいでつづいてきているじんむてんのうけであるといういぎをひろくこくみんにしめしれきしをかんがみて、そのうえでけつろんをだすべきでしょう。
 また、そのうえでおんなけいでもかまわないというのであれば、もっとせっとくりょくのあるしゅちょうをしなければならないはずです。
 それなのに「せいべつによるこていてきなやくわりぶんたんいしきがよわまるけいこうにある」というだけの、じょせいてんのうをみとめるしかせっとくりょくのないしゅちょうしかしないのであれば、これはもはやいとしておとこけいをつぶしているいしがあるとしかよみとることはできないでしょう。
 
 かじょうがきにされたそれぞれのしゅちょうもかなりむちゃくちゃです。
 
 まず『おとこけいだんしのこういけいしょういじはきわめてこんなん』ですが、どのようにこんなんなのかろんきょがまったくふめいかくです。
 もしこのていどのこんきょでゆるされるのであれば、「てんのうせいのいじはきわめてこんなんであるからてんのうせいははいし」というしゅちょうでもとおってしまうことになります。
 しかしそうではなくて、ほんらいなら「てんのうけいのいじはげんじょうではきわめてこんなんであるから、なんとかいじできるようぎろんし、せいどをかいぜんしよう」というぎろんをするのがすじのはずです。
 そもそも「おとこけいだんしのこういけいしょういじはきわめてこんなん」というのは、はじめからわかっている、こうたいしさまにおとこのこがうまれなかったじてんでわかりきっていたことなのですから、ここでのぎろんは「こんなんであるがこれをどうすればのりこえられるか」というぎろんをするのがまずだいいちにやるべきでしょう。
 そしてもしどうかんがえてもどのほうほうをもちいてもおとこけいがいじできないとだんげんできるのであれば、“しかたないから”いままでとはちがうほうほうをかんがえようというじゅんばんになるわけであり、しかしいまのだんかいでは「こんなん」であるのはそのとおりですがけっして「おとこけいがいじできない」とだんげんできないだんかいなのですから、ぎろんが「しかたない」れべるにとぶのはあきらかにすじちがいなのです。
 このしてんからみても、もはやゆうしきしゃかいぎは「はじめからけつろんをもっている」といわざるをえないとみるしかないのです。
 
 『きゅうこうぞくのこうせきふっきはこくみんのりかいとしじ、あんていせい、でんとうのしてんからもんだい』というのも、なんらこんきょがしめされていません。
 おとこけいおんなけいのちがいすらこくみんのたいはんはりかいしていないというのに、「きゅうこうぞくのこうせきふっき」はわだいにすらほとんどなっていないのに、なぜ「きゅうこうぞくのこうせきふっきはこくみんのりかいがえられない」とだんげんできてしまうのでしょうか
 ゆうしきしゃかいぎはえすぱーしゅうだんなのでしょうか。
 これほどこくみんをばかにしたものいいはないのではないでしょうか。
 
 また、『あんていせい、でんとうのしてんからもんだい』というのも、あきらかにれきしをむししています。
 どのようなでんとうをふりかえって「きゅうこうぞくのこうせきふっきはもんだい」といっっているのでしょうか。
 もしかしてゆうしきしゃかいぎがかんがえているにっぽんのれきしとは、「はいせんからきょうまでのたった60ねんだけ」とでもおもっているのでしょうか。
 それならたしかに「でんとうのしてんからはもんだい」でしょう、いままでこうぞくになったことのないいえがこうぞくになるのですから、でんとうをむししているといえるかもしれません。
 しかしにっぽんのれきしが60ねんしかないなんて、あめりかとにっぽんがせんそうしたことすらしらないおばかちゃんですらそこまではおもっていないでしょう。
 ゆうしきしゃかいぎがどんないとをもって「でんとう」ということばをつかったのかわかりませんが、にっぽんのれきしをばかにするのもいいかげんにしてもらいたいところです。
 
 『あんていせいがもんだい』というのも、やはりれきしをばかにしてます。
 てんのうけ2600ねんは、そのおとこけいのほうほうで2600ねんつづいてきたのですから、それをなぜ「あんていしない」といえてしまうのか、はっきりとろんきょをしめしてもらいたいものです。
 それともゆうしきしゃかいぎは、「2600としほどどつづいただけではあんていしているとはいえない。1まんねんぐらいつづけばみとめてやる」とでもいいたいのでしょうか。
 よくここまでじじつをむしできるとあきれはててしまいます。
 
 『じょせい・おんなけいてんのうのようにんはしょうちょうてんのうせいどのあんていてきけいぞくをかのうにする』は、あんていしていることと、じんむてんのうけがつづくことのいぎとは、まったくべつもんだいです。
 おはなしになりません。
 
 『「ちょうしゆうせん」によるこういけいしょうはせいどとしてわかりやすく、まされている』も、おなじくじんむてんのうけのいぎとはなんらかかわりあいのないおはなしです。
 そもそも「わかりやすい」というのは、しょせんしょみんのかんかくでしかありません
 しょみんのかんかくでわかりやすいからといっって、それをてんのうけにあてはめてよいというりくつにはまったくなりません。
 また「まされている」とだんげんするところもすごいです。
 つまり、「じんむてんのうけ2600ねんのでんとうはおとっていた」とゆうしきしゃかいぎはいっっているわけです。
 いったいなにさまのつもりなのでしょうか。 
 
 どれもこれもめちゃくちゃなしゅちょうしかありません。
 やえからすれば、えらいせんせいたちがあたまそろえて、しかもそうりだいじんのしてきしもんきかんなのですからかなりまじめにぎろんがされているとしんじたいところなのですが、しかしこれらのしゅちょうをきいていると、もはやぎもんやふしんかんしかうまれません。
 れいせいにかんがえれば、むしろゆうしきしゃかいぎがおんなけいてんのうありきといういとをもってけつろんがさきにあってぎろんされているとかんがえたほうがみかたをしたほうがごうりてきといえてしまいます。
 いったいこのしもんかいぎはなにがしたいのか、にほんこくみんとしてふあんしかおぼえません。
 
 
 ながくなってしまいましたので、こんかいのゆうしきしゃかいぎのけんかいのなかでももっともてきはずれでしょうをかくとくした、『おとこけいいじはからのひはんにこたえるかたちで「はばひろいこくみんのしじがえられるせいどであるかぎり、せいとうせいがゆらぐことはない」ともしゅちょうした』のぶぶんについて、じかいじっくりとのべていきたいとおもいます。
 

へいせい17ねん11がつ29にち

 「こうしつてんぱんにかんするゆうしきしゃかいぎ」のほうこくしょにいぎをもうしたてる 1

 こうしつてんぱんにかんするゆうしきしゃかいぎがほうこくしょをこいずみそうりだいじんにていしゅつしたというにゅーすはすでにほうどうされているところですが、そのぜんようがしゅしょうかんていのほーむぺーじにこうかいされていますので、こんにちはこれについていぎをもうしたてたいとおもいます。
 このほうこくしょ、さすがえらいせんせいがたがかかれているだけあって、よめばそれなりのせっとくりょくがあるようにかんじてしまうのですが、しかしよくよくれいせいにかんがえながらよんでみると、やっぱりとてもなっとくできるようなしろものではないことがわかります。
 こんにちはそれをひとつずつあばいていきたいとおもいます。
 
 みぎもひだりもいってよし!!
 ばーちゃるねっとしそうあいどるのやえです。
 おはろーございます。
 
 いまこうしつもんだいでなにがもんだいなのかといいますと、かんたんにいえば「おとこけい」をいじするのか、それとも「おんなけい」をようにんするのか、このいってんだけといえるでしょう。
 もはやじょせいてんのうにかんしてはぎろんするまでもなくはんたいしているにんはいないといっってもいいとおもいます。
 すくなくとも、かこのれきしにおいてじょせいてんのう(もちろんおとこけい)がそんざいしているというじじつがあるかぎり、じょせいてんのうをひていするざいりょうなどそんざいしないといっってもかごんではないはずです。
 ので、じょせいてんのうについてはもはやぎろんするひつようもなく、あえてふれるひつようもないこととします。
 
 さて、けっこうなぶんりょうになるこのほうこくしょですが、ぜんたいてきなほうこうづけとして、やえがよむかぎりこのようなほうこうをいしきしてかいているとかんじました。

 ○おとこけいのいじはもはやふかのうである
 ○よっておんなけいてんのうをみとめるべきである

 ほうこくしょにもかいてあるように、このかいぎは17かいほどかいぎをひらきぎろんがおこなわれたとされているのですが、やえからすれば17かいもかいごうをひらいたわりにはないようがうすっぺらいといわざるをえません。
 なぜかといいますと、いまいっったけつろんがすでにはじめからだされていたとしかおもえないようなないようしかこのほうこくしょにはかかれていないからです。
 このほうこくしょにはれきしをかんがみるというこういをまったくしていません
 なぜいまこうけいしゃもんだいがおこってしまったのかといえば、それはこうたいしさまにおとこのこがうまれなかったからであり、またきんじょうてんのうのもうひとりのこどもであるあきしののみやようにもおとこのこがうまれなかったというのもあるでしょう。
 しかしこのていどのききというのは、いままでのれきしのなかでもなんどもちょくめんしてきたききでしかなく、つまりそれはなんどもそのききをかいひしてきたれきしがあるということのうらがえしでもあります。
 よって、こんかいのじたいもれきしにならってかいひするほうさくをとるというのがもっともてきせつでありせいどうであるほうほうといえるわけですが、しかしこんかいのこのゆうしきしゃかいぎのほうこくしょは、それらのほうほうをまったくとろうとしない、どうすればそのほうさくをぐたいてきにとれるのかというぎろんがなされていないのです。
 このようなほうこくしょになっているから、けつろんありきではないかといわれてしまう、おもわざるをえないところなのです。
 
 そもそも、このゆうしきしゃかいぎはてんのうけにたいするにんしきがかなりまちがっているといわざるをえません。
 ほうこくしょにはてんのうのけいしょうほうほうとしてつぎのようにしるされています。

 じょうきのこういけいしょうしかくもののようけんのうち、1)「こうとうにぞくすること」および4)「こうぞくのみぶんをゆうすること」は、せいどのしゅしからとうぜんのようせいであり、また、2)「ちゃくしゅつであること」は、こくみんのいしきなどからこんごともいじすることがてきとうであるため、こういけいしょうしかくもののあんていてきなそんざいをかくほするためのほうさくをかんがえるにあたっては、3)のおとこけいだんしというようけんがしょうてんとなる。

 ゆうしきしゃかいぎがかんがえるけいしょうしかくのゆうせんじゅんいはつまり
 
 1.こうとうにぞくすること・こうぞくのみぶんをゆうすること
 2.ちゃくしゅつであること
 3.おとこけいだんしであること
 
 すでにこのじてんでまちがっているのです。
 なぜ「ちゃくしゅつであること」、つまりてんのうとこうごうのまにうまれたこどもであることのほうが「おとこけいだんしであること」よりじょういのじょうけんであるのか、さっぱりわからないのです。
 れきしてきにみても、これはただしいにんしきではありません。
 かなりのかずのてんのうは、おやからこにうけつがれたてんのうのくらいではないのがしじつでありじじつです。
 もうしわけていどに「こくみんのいしきなどからこんごともいじすることがてきとうである」なんてりゆうをとってづけていますが、いつのまにこのようなこくみんよろんがけいせいされているのか、やえはとんとぞんじません。
 そもそもおとこけいおんなけいというくべつすらおおくのこくみんがついていないげんざい、「おとこけいのほうがたいせつか、もしくはちゃくしゅつのほうがたいせつか」なんていうぎろんがまきおこるわけもなく、わだいにすらならないのですから、ここでちゃくしゅつをじょういにするというのは、それはゆうしきしゃかいぎのこじんてきなかんそうでしかないわけです。
 それなのにいかほうこくしょはこれをぜんていにつづけてられているのですから、もはやけつろんありきのほうこくしょであり、けつろんありきのかいぎだったいわざるをえないわけなのです。
 
 さすがにそれだけではまずいとおもったのか、このほうこくしょには、おとこけいについてのこうさつもいちおうしてることはしています。
 しかし、やっぱりけつろんありきのないようといわざるをえないないようなんですね。

 い. おとこけいけいしょうのいぎについてのかんがえかた
 おとこけいけいしょうのいぎなどについては、きょうにおいても、
 ・  これがわがくにのこういけいしょうにおけるかくりつされたげんりであり、それいじょうにじっしつてきないぎをもとめることじたいがむいみであるとするけんかい
 ・  おんなけいになったばあいにはこうとうがはいぐうしゃのかけいにうつったとかんねんされるため、これをさけてきたものであるとするけんかい〔さんこう13〕
 ・  りつりょうやじゅきょ